逃亡
 
第1章−1
 
「野上さん! 野上さんじゃありませんか。」
 改札を出たところで後ろから声をかけられ、野上が振り向くと、長身でまだ少年の面影を残した若い男が駆け寄って
きた。
「おお、西岡か。そういえば、お前も本庁にいたんだな。」
 西岡宏孝は野上の高校の後輩にあたる。もちろん、十歳以上離れているから、同時期に在学していたわけではな
い。野上が母校の剣道部に指導に行った時に知り合い、それ以来、弟のように面倒を見てきたのだ。
「本庁に異動になったんですね。刑事部ですか?」
「ああ、PFFT対策本部だよ。」
 それは、テロ組織のPFFT=全体主義統一戦線の事件のために、今年に入って警視庁刑事部に設置された特別編
成のチームである。
「へえ、そりゃあ大変だ。昨日も爆弾テロがあったんでしょう? 先週、元村代議士の乗用車が爆破されてから、確か三
回目ですよね。」
「そりゃあ、俺達が頼りないってことか?」
 野上は苦笑いを浮かべて、後輩に答えた。
 桜田門駅の階段を登ると、警視庁は目の前だ。野上たちは、もう正面入り口のドアをくぐり、エレベータホールの所ま
で来ていた。
 西岡との会話が途切れたので、ふと何気なく視線を上げた野上は、そのまま視線を動かすことができなくなった。
 それは、ちょっとした衝撃だった。
 そこにいたのはまるでグラビアから抜け出してきたような美女だった。いや、美女というより、印象としては美少女と言
った方が似つかわしい。シックなブラウンのスーツは成人した女性の装いであったが、サラサラしたくせのない肩までの
髪、くっきりと二重の大きな瞳、形のいい小ぶりの鼻、顎に向かって柔らかくラインを閉じる美しい顎、小さな桜色の唇
と、その顔立ちは「美しい」という以上に可憐で愛らしい。
 その女性は、なにやら緊張した面もちで初老の男と話をしていた。
「野上さん、野上さんったら…、何をボーッとしてるんですか?」
 急に返事をしなくなった野上をとがめるような西岡の声に、野上はやっと我に返った。
「い…、いや、何でもないよ…」
 野上は誤魔化そうとしたが、西岡は目ざとく野上の視線の先を追いかけ、その女性を発見した。
「ははぁ、彼女を見てたんでしょう?」
「う…、い、いや…」
 図星を突かれて、野上が口ごもる。
「ごまかしたってダメですよ。まあ、彼女なら見とれて当然ですけどね。」
 どうやら西岡は彼女のことを知っているらしい。
「お前、知っているのか?」
「もちろん。」
 西岡は自慢げな口調で答えた。
「我が警備部のマドンナ、早瀬瑞紀さんですよ。」
「えっ、うちの職員だったのか? どこかの女優がドラマのロケで来てるのかと思ったよ。」
 本当に、彼女はそこいらの女優とは比べものにならないくらいの美人だった。
「そうでしょう。実は昨年の秋の交通安全週間に、あるアイドルが一日署長をやったんですがね。たまたま早瀬さんが
かりだされて警備にあたってたんです。そうすると、なんと、一日署長よりも彼女に写真のフラッシュが集中したんです
よ。中には、アイドルそっちのけでサインや握手を求めてくる野次馬までいて、そのアイドルがむくれたって大変な噂で
したよ。」
 西岡によれば、それは警視庁の中では有名なエピソードになっているとのことだった。
 その時、早瀬瑞紀との話が終わったらしく、上司らしい年輩の男はエレベーターに乗らず、その場を立ち去った。それ
を見て、西岡が屈託ない調子で言う。
「あっ、話が終わったみたいですね。ちょうどいい。早瀬さんを紹介しますよ。」
「いや、ちょっと待てよ!」
 さっきまで彼女に見とれていたことにバツの悪さを感じて、西岡を止めようとしたが、西岡が声をかけるほうがわずか
に早かった。
「早瀬さん、おはようございます。」
 西岡の声に早瀬瑞紀がこちらを向き、親しげな笑みを浮かべて近づいてきた。そして、「おはよう、西岡さん」と声をか
け、横にいた野上にも会釈した。野上は年甲斐もなく、初な少年のようにときめくのを感じた。
 間近で見る瑞紀は、いっそう美しく、可愛かった。
「こちら、野上さん、僕の高校の先輩です。」
「はじめまして、早瀬です。」
 瑞紀はそういって丁寧に頭を下げた。美しい澄んだ声だった。「鈴を転がすような声」とはこういうのを言うのだな、と
野上は思った。
「野上さんは、あの田沼産業社長令嬢の誘拐事件で、PFFTの緋村一輝を逮捕した人ですよ。」
 それを聞くと、瑞紀は尊敬の眼差しで野上を見た。
「えっ、そうですか。お会いできて光栄です。私、警察に入って一年余りで、まだ勉強中の身ですので、これからいろい
ろと教えてください。」
 警察に入って一年ということは、高卒なら一九歳、大卒なら二三歳以上ということになるが、実際の年齢は何歳だろ
う、と野上は考えた。小柄で華奢な身体、柔らかな頬の輪郭とキラキラした大きな目のおかげで、見かけはどんなに上
に見ても二十歳、もしスーツ姿でなかったら十七〜十八歳にしか見えないだろう。
 その後、瑞紀は二言、三言西岡と会話を交わし、二人にお辞儀をすると、先にエレベーターに乗って行った。
 次のエレベーターを待つことにした野上は、瑞紀が行ってしまうと、ため息をつくように西岡に言った。
「早瀬巡査か、可愛い人だなあ。」
 それを聞いて、西岡は笑いを含んだ顔で言った。
「野上さん、違いますよ。」
「えっ、何が違うんだ。」
「彼女の階級は警部補。国家T種試験採用のキャリア組ですよ。」

   *

 瑞紀は緊張した面もちでドアをノックした。キャリア組といっても採用されて日の浅い彼女は、さすがに一人で警視総
監の部屋に呼び出された経験はない。
 警察官の階級は巡査から始まって九階級ある。一般の警察官は巡査からのスタートだが、瑞紀のように国家公務員
T種試験に合格して警察に入ってくる者は、幹部候補生として処遇され、警部補からスタートする。たたき上げの警察
官なら、ベテランになってやっと到達する階級だ。そして、その九階級の頂点にいるのが警視庁トップの警視総監であ
る。
「入りたまえ。」
 深みのある低音の声で返事があったので、瑞紀は「失礼します」と声をかけ、ドアを開けた。そして、入り口で一礼し、
部屋の奥に座る警視総監の前に起立する。
「君が、早瀬瑞紀警部補かね?」
 警視総監はいぶかしげな顔で、部屋に入ってきた瑞紀を見た。
 警視庁の美人女性警部補と言えば、キリッとした硬質の美女を思い浮かべる人が多い。しかも、東大法学部卒のキ
ャリア組だというのだから、颯爽としたキャリアウーマン風の女性だろうと思うのが当然だ。だから、プロフィールを先に
聞いて瑞紀に会う人は、その可愛いルックスと優しい人柄に、ほとんど例外なくイメージを裏切られる。もちろん、心地
よい裏切られ方だ。人事ファイルでしか彼女を知らなかった警視総監も同じだった。
「はい、警視総監から直々に特別な任務についてご指示があるとの連絡を、加納警備部長からいただき、さっそく参り
ました。」
 瑞紀はしっかりした口調で答えた。少女のような容貌に似合わずしっかりした警察官だと見てとった警視総監は、満
足げにうなづくと、さっそく本題を切り出した。
「知ってのとおり、PFFTの連続爆弾テロは、我が国の治安における安全神話を完全に破壊している。」
 元村代議士爆殺事件でリーダー緋村一輝の釈放を求める要求が出されてから、すでに三カ所が爆破されていた。一
カ所は都内の交番、一カ所は地下鉄の駅、そして、昨日は霞ヶ関の中央官庁街の一角が被害に遭っている。日に日に
国民の不安はつのり、マスコミの批判はPFFTとともに、彼らを検挙できずにいる警察に集中するようになっている。事
実、警察のとった対応もミスが重なり、霞が関が爆破された時は、捜査官の不注意で犯人を取り逃がしてしまってい
た。
 そして、次にPFFTが爆破予告してきたところは、なんと原子力発電所であった。
 いろいろな意味で、警察にとってはもう後がない状況になってしまっている。「そこで、とりあえず、犯人グループの要
求を受け入れ、その一方で検挙に全力をあげるという両面作戦を取らざるを得ないという結論に至ったのだ。」
 瑞紀は、緊張した面もちのまま、黙って警視総監の話を聞いていた。
「犯人側に要求を受け入れる旨連絡したところ、緋村の釈放と10億円に加えて、どういうつもりか知らんが、婦人警官
にお金を持たせること、指示をするまで全TV局に中継させること、という条件を追加してきた。」
 ここに来て、自分が呼ばれた理由が見えてきた。そして、次の一言でそれは確定したのである。
「しかも、犯人グループは現金を運ぶ婦人警官として、早瀬君、君を指名してきたのだよ。」
 

動画 アダルト動画 ライブチャット